徳川幕府10代目将軍『徳川家治(とくがわいえはる)』は、愛妻家で知られています。
2024年1月期にドラマ化された『大奥』で、主人公として描かれているのが徳川家治の正室(御台所)である倫子女王(ともこじょおう)です。ドラマでは徳川家治を亀梨和也さん、倫子を小芝風花さんが演じている事でも話題となっています。
大奥は度々ドラマ化されていますが、実写で見ると迫力があり華やかでありますが実に厳しい世界であった事がわかります。
そんな中でも、大奥の節制をしていた徳川家10代将軍の『徳川家治』がしっかりと正室をたてていたという説について、側室と大奥との関係性について書いてみました。
徳川家治は愛妻家だった?
徳川家治が『愛妻家』と呼ばれたのには、諸説あります。
この歴説により、”愛妻家”と言われていたとされていますが、ドラマでもどのように描かれるか楽しみですね。
愛想が良いタイプではなかったものの、将軍であっても謙虚で周りに気を使えるタイプだったと言われています。その辺りはドラマ『大奥』では亀梨和也さんが不愛想な家治役を見事に演じられていますね。
祖父である徳川吉宗から可愛がられた家治は、教養があり、1786吉宗と同じく大奥の必要ない費用を節制した事でも有名です。
正室、側室を取り巻く「大奥」の豪華絢爛さにも、無駄な出費を抑える事をしていたという事からも正室を立てる程の愛妻家であったという顔が伺えますね。
徳川家治の正室倫子の生い立ちは?
倫子女王は、1738年に東山天皇の孫として京都で生まれました。家治は1737年生まれなので、倫子の1歳年上となります。
3代前8代将軍徳川吉宗の代から、宮家から正室を迎えているのです。
1748年(寛延元年)に縁組が決定され、1749年(寛延2年)に京都から江戸に到着。倫子女王が10歳の時です。
その後1753年(宝暦3年)に縁組の披露が行われ、翌年に婚礼の式を挙げました。
2年後の1756年倫子17歳、家治18歳の時に長女・千代姫が誕生しましたが、生後2年で他界してしまいました。
当時の用語として『夭折(ようせつ)』=「若くして死ぬこと」と言われていました。
徳川家の歴史上、7歳まで生きられない子供が多く居た事により使われた言葉であったようです。
1760年(宝暦10年)江戸城本丸に移り家治が継承し、倫子は御台所(みだいどころ)となります。
1761年に次女・万寿姫を出産するも、12歳で夭折。
その間にも、家治は側室を持たずに、夫婦仲が睦まじく、異例の夫婦だったと言われています。
恐らく、倫子の芯が強く、人柄も良く、家治も唯一心を許せる存在だったのでしょう。その辺りはドラマ『大奥』では小芝風花さんが芯が強く、育ちの良さを潔く演じているように感じます。
徳川家治の側室は何人いた?
正室倫子との間に、男子が誕生しなかった事から、一大問題である将軍の役目でもある”お世継ぎ”問題が浮上しました。
そこで家治の乳母であった大奥総取締の松島と、老中の田沼意次と強く側室を持つ事を勧めた事により、「お前(意次)も側室を持つならば、自分(家治)も持とう」と言ったそうです。
家基は、倫子の養子となります。後の11代将軍になる予定でしたが、18歳の若さで病没してしまい「幻の11代将軍」と言われています。
そして、もう1人の側室が居ました。
世継ぎが誕生した途端に、家治は側室との関係をぱったりと切り、正室倫子と過ごしたと言われています。
その辺りが”愛妻家”とも言われる理由と言われるところであります。ドラマではどんな表現で語られるでしょうか。
徳川家治と倫子の最期は?
後継者が次々と病没した事を受けて、血縁のある一ツ橋家から養子を迎える事になります。
それが、11代将軍であり、子だくさんとして有名な後の『徳川家斉(とくがわいえなり)』です。
※薨去(こうきょ)という言葉は、「皇族または、三位以内の人が死去すること」
34歳の短い生涯でしたが、夫に愛され、正室としては実子も誕生させられ、幸せな人生だったのではないかと推測されています。
家治が、頻繁に倫子の元へお渡りする事から大奥内での紛争も起こった程だと言われているので、夫婦円満ぷりは、歴史に残る程だった事が見受けられますね。
そんな倫子の生涯を描く作品がドラマ『大奥』となるかもしれません。
まとめ
徳川家治は愛妻家だったのか?正室倫子と側室との関係性について調べてみました。
戦国の時代で、運命の出会いをしたお夫婦であった徳川家治と倫子女王の人生が、ドラマ化するにはとても良い素敵なお話かもしれません。
「大奥」とは人を人とも思わない、一度入ると出る事の出来ない過酷な環境であったと言われていますが、愛する人と両想いで居られた生涯なら報われたのではないでしょうか。
「歴史を知る事は人を知る事」だと言われていますが、家治と倫子夫婦の奥深い愛のお話となるのでしょう。